(4)じゃれあいが許されない社会

 ある中小企業に勤める人から、古き良き時代の忘年会でのエピソードを聞いたことがある。
 若手社員が酔った勢いで、禿頭の社長に向かって、「ハゲ! ハゲ!」とからみはじめた。まわりの者は止めようとしたが、当の社長は、平然とした顔で酒を飲み続けている。するとその社員は、今度は、マヨネーズのチューブを持ち出し、社長のつるつる頭に塗り始めたのだ。それでも、平然と杯を重ねている社長。そして、頭の塗られたマヨネーズを、社員がペロペロ舐めはじめたところで、さすがにまわりの者が力ずくでやめさせたという。しかしその後も、社長はニヤニヤしながら、何事もなかったように飲み続け、おとがめは一切なかったそうだ。
 なかなか肝っ玉のすわったすごい社長だったようだ。しかし、ただマヨネーズを塗っただけではただの嫌がらせだが、それを舐める行為はいわば親愛の証である。そのことを社長はちゃんと感じ取っていたのだろう。無礼な行動だが、それは子どもが親にじゃれつくようなものだ。どこか腹の奥深くで人間同士が繋がっていた時代は、多少羽目をはずしたところで、すぐに人間関係が破綻してしまうことはなかったのだ。
 しかしこのことは、もともと厳然としたポジションが決まっていて、最後に収まるべき位置が決まっていたからこそのことだったのではないだろうか。

 地縁・血縁による上下関係が厳然と存在していた時代には、一方で、無礼講としての悪ふざけが大目に見られた。非日常的な場面で羽目を外したとしても、それは、日常的なワクを揺るがすものではなかったからだ。小競り合いやケンカも、理性によってではなく、社会的なワクに裏打ちされた「場のもつ限界」によって収束していった。
 ところが、古い社会の因習や差別構造を捨て去り、自由と平等を目指してボーダレス化が進んだ現代社会においては、「不文律としての“場のもつ限界”」という安全弁が機能しなくなる。卒業式を終えた後の“教師へのお礼参り”や、成人式の後の乱痴気騒ぎは昔からあった。しかし、卒業式や成人式そのものを台無しにするような悪ふざけは、ボーダレス社会のひとつの反映だろう。
 自由を許さない社会的なワクは、じゃれあいの暴走を未然に食い止める働きもしていた。しかし社会的なワクが緩み、自由が謳歌できるようになった現代では、自前の理性を働かせて、自ら感情の暴走を食い止める必要があるのだ。

 「同年齢の友だちとの関係がうまくいかない」という子どもも、大人との関係や、年上や年下の子どもとの関係は安定していることが多い。上下関係がはっきりとしている人関係は、距離のとり方が容易なのだ。
 母親たちからは、「ママ友だちとの、距離のとり方が難しい」という声を聞く。それぞれの家の格式や上下関係が明らかだった時代においては、それに応じた固定的な距離のとり方でがはっきりとしていた。しかし自由で流動的な人間関係では、人との距離のとり方が難しく、個々人の試行錯誤が必要となる。
 一番無難なのは、ホンネの気持ちをしまい込んだまま接するということだろう。しかしそうなると、お互いのホンネがますます見えなくなり、仲間はずれにならないように、相手の顔色をうかがうようになってしまうことになる。じゃれあいを許容しあうな“ざっくばらんな関係”を望むのは、危険なカケなのだ。

 このような「自由のもつ負の側面」に閉塞感を覚え、狂信的な集団に身を投じる人々がいる。そういった人たちは、その集団独自のさまざまな制約に縛られ、ワクを与えられることにより、やっと安心感が持てるようになるのだ。
 かつてのナチスドイツがそうだったように、自由な社会がもつ「自己責任・自己決断の大変さ」は、固定的な行動規則へのあこがれを生む。現代の日本の社会がもつ閉塞感を解消する道も、「自由からの逃走」しかないのだろうか。


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