(5)境界線としての怒り

 ある文化人類学者は、近代化を拒み、伝統的な文化を固持し続けている部族を観察し、彼らが怒ることを知らず、「怒り」を意味する言葉も持たないことに驚いたという。ただ、怒りに相当する感情が表れるのは、他の共同体から、その文化の伝統を侵された時だけだ。そのような時には、戦いが起こる。それは、いわば“共同体としての怒り”だ。
 ムラ共同体の成員全員が同じ価値観をもち、一心同体のような暮らしをしている時、成員同士には自他の区別意識はほとんど生じない。自他の区別はムラの内・外であり、アイデンティティーを守る“境界線”は、ムラ共同体が用意してくれていた。
 このように怒りの感情には、自他を区別する働きがある。周期的に起きる戦争は、怒りの発散の場を提供すると共に、同方向の怒りを共有することにより、共同体の成員同士の絆を深める役割も果たした。戦前の日本の社会においても、同じような傾向があったのではないだろうか。そこには、「おらがムラ」ではなく、「おらが国」という境界線意識が存在していた。

 戦後の日本における代表的な怒りは、学生運動・反戦運動・市民運動といった“民主化闘争”に見ることができる。そこでの境界線は、「反体制側」と「体制側」の間に引かれた。大企業や政府与党といった“敵”を前に、庶民は団結を誓い、連帯感を高めていったのだ。体制側に向けての「怒りの発散」が封じ込められた時、内ゲバという形での怒りの感情の発散に走らざるを得なかったことは、ある意味、当然の帰結だったかもしれない。しかし大多数の人々は、個々人の内に怒りを内在化することによって、事態を収拾させていった。
 「同じ国民」「同じ庶民」という幻想が打ち砕かれていった結果、境界線は、自己と他者の間に引かれることになる。外圧的な縛りや帰属意識から解き放たれ、「自分らしさ」を指向する現代的な生き方は、必然的に個人主義を選択する。“境界線”は自分と隣人との間に生まれ、境界線を侵し安全を脅かす者に対しては、“個人としての怒り”を用意していく必要があるのだ。
 集団的な怒りの発散の場は期待できなくなり、その一方で、怒りの共有による他者との一体感や親密な関係が失われ、孤立感にさいなまれる。そして抑圧された怒りは、慢性的なイライラとなって、人々を苦しめるのだ。

 戦争が起これば、慢性的なイライラは解消に向かうのかもしれない。狂信的な集団に所属すれば、個人的な怒りは静まるのかもしれない。しかし、せっかく手に入れた「自由」を手放すことによってしか、心の平安は取り戻せないのだろうか。
 自分らしさを捨て、“その他大勢”の価値観を甘んじて受け入れることによって、安心感を得ていくのか。安心感への願望を断ち、孤立感にさいなまれながら、自分らしさを追求していくのか。この2つの選択肢しか、現代人には残されていないのであろうか。


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