(3)怒りを楽しむ

 昔、私の家の近所に、仲の良い八百屋の老夫婦がいた。ご主人は、「美人の奥さんには、はい、これ、おまけ」などと、お客さんに愛想を振りまく。客が、「あら、そんなこと言っていると、奥さんに叱られるわよ」と切り返しても、「なあに、女房は、女の中には入ってないから、平気、平気!」とすました顔だ。すると、店の奥にいた奥さんから、「この人だって、男の中には入っていないから、平気、平気!」とすかさず逆襲され、頭をかくご主人。客も夫婦も大笑いだ。「けんかするほど、仲が良い」を地でいくようなご夫婦だった。
 大人どうしも、ちょっかいを出し合ったり、軽口をたたき合ったりという“ざっくばらんな人間関係”が結べると、慢性的なイライラを抱えることが少なくなる。それは、軽い怒りの感情を、“じゃれあい”というやり方で楽しみながら発散できるからだ。

 ある時、「ちょっと叱られただけで、自分の頭を際限なく叩きはじめる」という3歳児の相談を受けた。こういったタイプの子どもは、じゃれあい遊びに誘っても乗ってきてくれないことが多い。物を壊すいたずらが目に余ったり、友だちにすぐに手を出してしまうような子どもも、同じような傾向がある。
 ふつう子どもは、こちらがちょっかいを出すと、少し迷惑そうな、しかし嬉しそうな独特の表情を見せる。さらにちょっかいを出し続けると、子どもの方からもちょっかいを出してくるようになり、ちょっかいの応酬になる。そしてだんだん子どもの顔は輝きはじめ、あっという間に仲良くなるのだ。
 しかし、感情抑圧傾向のある子どもは、こちらがちょっかいを出しても、身を固くして避けようとすることが多い。さらにちょっかいを出し続けると、急にかんしゃくを起こし、叩いたり噛みついたりしてくる。0%の怒りか、100%の怒りかの両極端で、ほどほどの軽い怒りをじゃれあいという形で楽しむことができないのだ。

 こういった子どもたちに共通なのは、怒りが「不適切な方向性」をもっているということだ。怒りの表現を無理に押さえ込もうとすると、自分自身や、物や、友だちといった、本来向かうべき方向とは違うところに向かって暴発してしまうのだ。「本来向かうべき方向」とは、言うまでもなく親である。
 子どもは、親に対して怒りをぶつける(ダダをこねる)中で、自己表現と自己抑制のバランスを体得していく。さらに、親と適度な距離が置けることにより、独自な存在である“自分”というものに自信をもつようになる。そうなると、ほどほどのじゃれあい遊びを楽しめるようになるのだ。

 ただ核家族化が進み、“密室育児”が主流となったこの国では、ダダこね期の子どもの相手をする母親の苦労は並大抵ではない。2世代同居、3世代同居が当たり前だった時代は、子どものダダこねの相手をする大人は、家の中にたくさんいた。しかも、自然環境に恵まれ、発散的な外遊びが主流だった時代には、そういった遊びが子どものほどほどの怒りの発散の場となっていた。それを現代では、母親一人が受け止めなくてはならないのだから、大変なことである。
 さらに、大人社会全体の感情抑圧傾向が、それに拍車をかける。ざっくばらんな人間関係が主流だった時代には、大人同士もじゃれあいが得意だった。社会のいたる場所で、じゃれあいの腕を磨くチャンスがあったのだ。時には、大人同士の行き過ぎたじゃれあいがケンカに発展してしまうこともあっただろう。しかしそれも含めて、心おきなく感情表現をしていく中で、具体的な経験を通して、適度な感情抑制や人との距離の置き方を学んでいくことができたのだ。大人全体がダダこね上手だった時代には、子どものダダこねの本質を「じゃれあい遊び」と見抜き、深刻になることなく適当にあしらうことができる親も多かったことだろう。
 しかし、スマートな人間関係が主流となった現代社会においては、「経験や失敗を通して、自分自身の感情の扱い方を学んでいく」ということが許容されないような雰囲気に充ち満ちている。自分の感情との付き合い方を学ぶ前に、抑え込み、笑顔の仮面をつける生き方が主流となってしまっているのだ。このような時代に育った母親が、子どものダダこねを受け止めることは容易ではない。
 飼い慣らされることなく、幽閉されたままの怒りの影響は、幼児に見られる「自分自身を傷つける」「物を壊す」「友だちに当たる」といった行動が、青少年や大人の場合は何に相当するのかを考えてみると、容易に想像がつくはずだ。


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