(2)怒りには意味がある

 小学校5年生の子どもが、母親にこう頼んだ。「学校で使うノートを買いたいから、駅前のスーパーまで一緒に行ってよ」。夕食の準備で忙しかった母親は、「もう5年生でしょ。それぐらい、一人で行きなさいよ」と返事をしたが、そのとたん、そう言ったことを後悔した。この子には対人緊張傾向があり、特にこの3ヶ月ほどは情緒が不安定で、臭いに対して過敏になっていたからだ。
 ストレスを溜め込むと、臭いや音に過敏になることがある。「学校はトイレが臭いから、行きたくない」と言ったり、「教室は、みんなが騒がしいから嫌だ」と訴えたりと、ふつうなら気にならない程度の刺激にも、過敏に反応してしまうのだ。私たちも、風邪で熱があったり、体調が悪かったりすると、ふだんなら何でもない音や光がうっとおしく感じられることがある。それと同じで、本人にとっては切実な問題なのである。
 この子どもの場合は、スーパーやレストランなどに入ると、「臭くて、吐き気がする」と訴えていた。ところが母親は忙しさにかまけて、ついそのことを忘れてしまっていたのである。「ごめん、ごめん」と母親はすぐに謝ったが、「もう、いい!」と子どもは腹を立て、家を飛び出していった。母親は心配したが、やがて帰ってきた子どもの手には、しっかりとノートが握られていたという。腹を立てながら、自分一人で買ってくることができたのだ。
 母親は「ケガの功名でしたが…」と苦笑いしながら、このエピソードを教えてくれた。

 ここには、怒りのもつ重要な意味が示されている。怒りの感情は、「障害を跳ね返して行動するためのエネルギー」に転化できるのだ。
 逆に、自分の望む方向に“行動のエネルギー”が発揮されていない状態が続くと、やがてそのエネルギーが、怒りの感情へと変化してしまうことがある。慢性的なイライラに悩まされている人は、一方である種の無力感を抱えていることが多いが、こういう人はむしろ、自己実現への大きなエネルギーを潜在的にもっているのではないだろうか。

 別の子どもについて、「原因不明のかんしゃくを頻繁に起こす」という相談を受けた。友だちの輪の中に、なかなか入っていけないことも心配だという。カウンセリングを進めていくうちに、母親に対してのダダこねがひどくなってきた。しかしやがて、原因不明のかんしゃくは収まり、友だちとも仲良く遊ぶことができるようになった。このような経過をたどる子どもは多いが、ここにも怒りのもつ意味が隠されている。
 「原因不明のかんしゃく」は、怒りの表現が抑圧された状態である。原因不明なのは、「本当は、何に対して腹を立てているのか」という表現を避けた、単なる“感情爆発”の段階にとどまっているからである。それが、内実を伴った“表現”に高まっていくと、母親に対する指向性をもった“ダダこね”になる。ダダこねは、怒りの装いをまとってはいるが、一種の自己表現なのだ。
 シュタイナー教育で知られている思想家のルドルフ・シュタイナーは、「人間が成長していくためには、“共感”と“反感”の2つをバランスよく学んでいく必要がある」という趣旨のことを言っている。このことは、子どもの成長を援助しているとうなずけることが多い。子どもが母親との一体感(共感)に浸り続けたとしたら、いつまでたっても“自分”というものが作り出せない。親とは違う独自の存在である“自分”を創造していくためには、親から離れ、一定の距離を置く必要がある(反感)。この作業が、親に対する反逆、すなわち“ダダこね”なのだ。
 ダダこねを通して子どもは、自己主張のしかたを学んでいく。それと同時に、度を過ぎた自己主張を親にとがめられる中で、自己抑制をも学んでいくのだ。

 小さな子ども同士の関係というのは、実にシビアなものである。初対面なのに、急に「あっちへ行け!」と言われたり、おもちゃを奪われたり、抱きつかれたりと遠慮がない。しかし、いざというときに「No!」と拒否することができると、身の安全を確保することができる。伝家の宝刀である「No!」は、母親に対するダダこねの中で身につけていくものだ。そして、こういった自己主張の力をもたないうちは、怖くて友だちに近づけないのも、無理はないのである。
 遠慮がないぶん、子ども同士は仲良くなるのも早い。ちょっかいの出し合いや、小競り合いを繰り返しながらも、あっという間に親密さが増していく。こういった「じゃれあい」は、いわば、軽い怒りの発散と言える。怒りの感情は、「人間関係の潤滑油」ともなりうるのだ。


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