(1)隠された感情抑圧の結末

 子どもの行動・性格面に関するさまざまな問題の根っこには、感情抑圧のメカニズムがある。このことは、すでに出版されている私の著書の中でたびたび触れてきたし、相談室を訪れる親たちにも説明してきた。子どもの心のからくりを知った親たちは、「不可解な行動の原因が、やっと理解できた」と胸をなでおろす。しかし一方で、「感情抑圧傾向をもったまま成長していくと、この先、どんな人間になってしまうのだろう」と不安を漏らす人も少なくない。
 しかしその点について、私の見方は楽観的だ。たしかに幼児や小学校低学年など、比較的早い段階で破綻をきたし、なんらかの問題が生じるのは、特に感情抑圧の傾向が強いタイプの子どもたちだ。しかし、そのぶん早めに対応し、マイナス感情の発散や自己表現を促していけば、予後は悪くない。「親が気づいてあげる」ということのもつ影響力はとても大きく、それだけで、子どもの心に大きな変化が起きることも珍しくないのだ。

 問題はむしろ、目立った問題がないまま大きくなっていった子どもたちである。周囲の大人が気づかないままマイナス感情をため込み続け、中学生や高校生になってやっと臨界点を迎えた場合、事態は深刻だ。日々、さまざまな事件の報道に接していると、背後に感情抑圧のメカニズムの存在を感じることがあまりにも多い。
 たとえば対人緊張が強い子どもは、親に対してさえリラックスして甘えることができにくい面がある。それが、甘え上手になってくると、人に対する緊張も少し緩んでくる。さらに変化が進むと、今度は、親に対してダダをこねる時期がくる。これはいわば自己主張の練習であり、その結果、友だちとも緊張しないでやりとりできるだけの「心の力」がついていくのだ。相談を受けたケースの多くが、同じような経過をたどる。
 このような変化が、中高校生になってから一気に起きた場合、「不登校の末、家で暴れ始める」ということになるのだろう。不登校やひきこもりは、「親のそばにいて、甘えたい」という欲求の表れだ。しかし、進学に向けて学校の授業がどんどん進んでいく状況では、ゆったりと甘えさせるという選択肢は受け入れがたい。家庭内暴力は、自己主張のためのダダこねと本質は同じだ。しかし、小さい子どものダダこねやかんしゃくでさえ、親は対応に苦慮する。それが中高校生ともなると、簡単には受け止めきれなくなる。まして、長年にわたって溜め込んだ怒りが一気に爆発した場合は、想像を超えるすさまじさになるだろう。

 あるいはまた、「すぐに親を叩いたり、噛みついたりする」という子どもの相談を受けることがある。叱るとよけいに叩いてきたり、ひどいかんしゃくを起こして物や友だちに当たる。かといって、優しく諭すだけでは収まらず、対応に困って相談にみえるのだ。
 このような行動は、実は、ダダこね下手の子どもによく見られるものである。ダダこね上手の子どもの場合は、「ママのバカ!」と叫んで大声で泣いたり、地面にひっくり返って暴れたりと、ストレートに感情を表現することができる。しかし、叩く・噛みつくという行動は、屈折してしまった感情表現なのである。このような子どもへの対応は、叩いてくる手をつかんで制止してやることである。すると当然、子どもは手を振り切ろうとして暴れ出す。しかし、それでよいのだ。全身で暴れるという行為は、気持ちが発散しやすい上手なダダのこね方なのだから。乱暴をしようとする手や体を保持し続けると、子どもは全身で暴れるが、やがて気持ちを出し切り、すとんと落ち着く。このような対応を続けていると、子どもはみるみるダダこね上手になっていくのだ。
 受容的な態度で接しようとする母親が、「叩くまま・噛みつくままにさせておいたところ、子どもの行動がどんどんエスカレートしてきた」と相談に訪れることがある。どうして、エスカレートしていくのか? それは、叩く・噛みつくという行動が“抑圧のかかった感情表現”であるため、いくら叩かせてもらっても、子どもはちっともすっきりしないからである。それに子ども自身、「親を叩く」という行為がいけないことだと、本当はよく分かっており、つい叩いてしまう自分に内心いらだっているのだ。そんな子どもが、屈折したダダこね表現を止めてもらい、全身で暴れるというストレートな感情表現に導いてもらうと、「ああ、これこそ、自分がやりたかった行動だ」と実感し、かえって親に対する信頼感は増してくるのだ。

 しかし同じようなことが、中学生になってから起きるとしたら、どういうことになるだろうか。それが現実化した悲惨な事件が、1996年11月に、東京都文京区で起きた。ひとりの父親が、「金属バットで息子を殴り殺した」と警察に自首してきたのだ。当時中学3年生だった長男は断続的な不登校状態にあり、家族に対して殴る蹴るなどの暴力をふるい続けていた。身の危険を感じた母親と姉は家を出たが、父親だけは家に残り、長男の立ち直りを模索し続ける。カウンセラーの助言のもと、父親がとった方針は“完全受容”だった。いくら暴力を振るわれても抵抗することなく、なされるがままに受け止める。そんな生活に2年半にわたって耐え続けたあげく、ついに我慢の限界を超え犯行におよんだのだ。
 何とか子どもを立ち直らせようと、歯を食いしばって耐え続けたであろう父親の心境を思うと、とても責める気持ちにはなれない。しかし子どもは、父親に暴力を止めてほしかったのだと思う。甘んじて暴力を受け続ける父親に対していらだち、それ以上に、暴力を振るう自分自身に対していらだっていたはずだ。殴り続ける子どもの苦しみと、殴られ続ける父親の苦しみ。“感情抑圧のメカニズム”という視点さえあれば、すれ違っていた2つの苦しみが出会い、和解へと進むことができたのではあるまいか。そう考えると、残念でならない。


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