◆スーツ姿の達人

それは、不思議な光景だった。

終電近くの地下鉄には、ときどき奇妙な人が乗ってくる。中には、あまり関わり合いになりたくない感じの人もいる。
とある駅で乗りこんできたその男は、カバンからウォークマンのイヤホンを引きずっていた。何気なく拾ってあげ、見上げると、会釈を返してきたその男の目は、アルコールのためどんよりとしていた。シャツの前をだらしなくはだけ、ズボンのチャックも半分落ちかけたその姿からは、昼間しっかり仕事をした後の酒というより、昼間から飲み続けるすさんだ生活が感じられた。
私の横にどっかりと座った男。開きっぱなしになったカバンからは、ウィスキーのビンがのぞいていた。やがておもむろにビンをつかんだ男は、ぐいと一飲みした。小心な私は、からまれてきたらどうしようとドキドキしながら、本を読んでいるフリをしていた。今にも言いがかりをつけてきそうな男の視線を感じつつ。

次の駅に着いた時、会社員ふうの2人の男性が乗ってきた。上司とその部下という感じで、私の正面に座るなり、仕事の話であろうか、熱心にしゃべり始めた。年上の上司風の男性は、ビシッとスキのないスーツ姿。会社人間の典型のような風貌で、私は、こういうタイプの人には、偏見かもしれないが、あまり好感がもてない。「心より金」「人より会社」という人生観をもっていそうな気がしてしまうからだ。

と、その時、横に座っていた例の男が、急に立ち上がった。手にはウィスキーのビンを持ったまま。会社員に近づき、その前に立ちはだかった。そして、手にしたビンを、年上の会社員に向かって振り上げたのだ。危ない! 次に車内に繰り広げられるであろう凄惨な光景が頭を過ぎり、私は恐怖で体が金縛りのようになった。かたずを呑んだ次の瞬間・・・男は振り上げたビンを静かに降ろした。そして、「お互いに頑張ろうぜ」と、まるで、友達にでも会ったかのような穏やかな言葉と共に、ゆっくりと席に戻ったのだ。

いったい会社員は何をしたのか? 何をしたわけでもない。実際、その男性は、驚くほど何もしなかったのだ。先制攻撃をかけなかったのはもちろん、よけようとするのでもなく、手で顔をかばうというとっさの動きもなく、ただ、ビンを振り上げる男を、見上げただけだった。
しかし、その時の男性の表情は、今でも忘れられない。恐怖はひとかけらもなかった。無理な笑顔もなかった。ただただ「子どものように自然に」としか言いようのない穏やかな表情で、男を見上げたのだ。

会社員の男性が見たものは、男の表面的な「すさんだ」姿ではなかったのだろう。嫌悪や恐怖に巻き込まれる前に、男の深い部分と一瞬のうちにつながり、「頑張っているね」「ほんとうは、頑張りたいんだね」と内なる声で語りかけたに違いない。
人間の本来の姿に、どんな時にも絶大な信頼をおける、心の底からの「愛」というものを、あの男性はもっていたのだろう。そう考える他はない、不思議な光景だった。
スーツ姿の人の中にも、何気ない周囲の人の中にも、「達人」はいるものらしい。


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