◆「解き放つこと」と「繋がっていくこと」

数年前に、不思議な夢を見ました。
―自分の手から不思議なエネルギーをもった光線が出せるようになり、その光線を植物に当てるとドンドン伸びるのです。それを人に自慢して見せているうちに、自分の手が溶け始めていることに気づきました。慌てて医者に駆け込んでも、どうにもならず、みるみる手は溶けていき…。恐怖と絶望の中で、偶然出会った老人(導師)にすがると、ニッコリと、荒海をさし示すのです。岸壁には、壊れかけ今にも沈みそうな小舟。その船に乗って荒海に乗り出せば助かるのだということが分かりました。沈没の怖さは感じず、ただただありがたくて涙が止まりません。―
そこで目が覚めましたが、感謝の嗚咽はしばらく止まりませんでした。

あまりにも生々しく意味ありげな夢だったので、その方面に詳しい知人に話すと、夢解釈をしてくれました。シュタイナーの神智学では、魂(自我)の成長を阻む二人の悪魔がいると考えられているのだとか。一人は、人間を傲慢にして、本来の目的を見失わせる悪魔。もう一人は、人間に恐怖を与え、成長への意欲を萎えさせる悪魔。夢の中で私は、この二人の悪魔に翻弄されかけていたのだそうです。そして、壊れかけた小舟は、傷ついた魂。荒海は、魂の修行のフィールドを象徴しているのだそうです。この不思議な夢の記憶とその意味は、今も私の心の中に残っています。そして、いろいろな機会に思い出されるのです。最近思うのは・・・

「私がこの世に生を受けた意味は、なんだろう」、そして「私が果たすべき、この人生での役割とは何だろう」と考える時、いまこの瞬間、「私が本当にするべき事は何だろう」「私が本当にしたいことは何だろう」と思うのです。そしてふだんの自分は、本来の自分の自由な選択ではなく、「すごいでしょ!と自慢できるから」(傲慢さ)や「ちゃんとやらないと責められるから」(恐怖)という判断基準によって、自分のあり方を選択しているのではないかと感じることが多いのです。たまったお皿を洗うといった些細なこと(女房は小学校教師で私以上に忙しそう)についても、親子の援助をするような場合でも、「えっへん。すごいでしょ! 私がいて助かった?」と言いたいがためか。そうでなかったら、「うまくやらないと、嫌な顔をされる」というアセリを抱えながらか。

でも一方で、「傲慢さ」と「恐怖」の後押しがあったからこそ、ここまで頑張ってこられた気もします。それらは、いわばお友達。行動のエネルギー源。だから、2人の悪魔の指示で動くのではなく、私自身の「自由な選択」で行動していくのは、逆にちょっとこわい気がするのです。すべてがどうでもよくなり、何もやる気が起こらなくなるような・・・。

「傲慢な気持ち」と「恐怖」は、感情解放によって確かに減っていくだろう。けれども、それに代わるエネルギー源を探していかないと、また「苦しい気持ち」が恋しくなって、苦しさを引き寄せてしまうのではないのだろうか。では、新しいエネルギー源は、どこにあるのだろう。ひとつは、人(の本質)と繋がっていくことかなあ。でも、それが中毒になってしまわないためには、最終的には、「人を越えた大きな存在(大宇宙?)」と繋がっている感覚(感謝の念)を取り戻していくことかなあ…。そんなことをボンヤリ考える、今日この頃です。 


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