(1)感情のコントロールが逆効果になる理由

 「子どもの前では、なるべく笑顔でいたいと思うのですが…」と言う母親。しかし、いつも叱りすぎて後悔するのだという。きっかけは、いつも、ほんの些細なことだ。
 夕食の準備が整ったので、おもちゃを片づけるように子どもに声をかける。「わかった」と言いながらも遊び続ける子どもに、何度か声をかけるが、いっこうにやめる気配がない。イライラが最高潮に達し、それでも、なんとか気持ちを抑えて、「もう、いい加減にしなさい」と注意をする。しかし、「やだ、もっと遊びたい」という子どもの言葉に、プツンと我慢の糸が切れるのだ。「ママなんか嫌い!」という反抗的な態度に、さらに怒りに火がつき、最後は叩いてしまうのだという。その後は、暗い顔の子どもとの気まずい食事。いつも、こんなふうになってしまうのだそうだ。
 「我慢の末の、大爆発」というパターンは、第1章で紹介した「急にキレてしまう子ども」の場合とよく似ている。感情を無理にコントロールしようとすると、かえって怒りの暴走になってしまうのだ。

 なかなかおもちゃを片づけない子どもに、「ほら、さっさとやんな!」と一喝しながら、勝手におもちゃを箱にしまってしまう母親。「ママのバカ!」と叫ぶ子どもを相手にせず、さっさと食べ始める母親の態度に、子どもは仕方なく、ベソをかきながら食卓につく。「うーん、今日のカレーは大成功だな。どう? おいしいでしょ?」とのんきな母親に、いつしか子どもの機嫌も直り…。
 こういうタイプの人は、怒りの大爆発になりにくい。自己主張を小出しにできれば、そこそこの怒りにとどまることができる。そして母親が子どもの怒りに巻き込まれないぶん、子どもが落ち着くのも早いのだ。
 おおらかな感情表現ができた時代には、こんな感じの親子関係が多かったのではないだろうか。

 親として、なるべく笑顔で子どもに接したいというのは、もっともな願いだろう。しかし、無理に怒りを我慢し続けると、かえってコントロール不能に陥ってしまうのには理由がある。
 怒りの感情が湧くのは、人間としてある程度はしかたがないことだ。ところが怒りの感情が生じたことを必要以上に問題視し、それを無理に押さえ込もうとすると、新たな2つの“怒り”が生まれてくる。ひとつは、「怒りを抱えてしまった自分に対する“怒り”」、もうひとつは、「笑顔への努力を台無しにした相手に対する“怒り”」である。
 仏陀の瞑想法に詳しいラリー・ローゼンバーグは、「感情が自らの花を咲かせることについて干渉しなければ、それはそれ自身の命にしたがって去っていきます」(『呼吸による癒し』春秋社)と述べている。たとえ怒りが湧いてきたとしても、それを抑え込もうとジタバタしなければ、やがてそれは自然に消えていくのだ。しつこいのは、むしろあとから生まれた怒りの方である。こういった怒りのもつ性質を、古き良き時代の人は、生活経験の中から自然に学び取っていたのではないだろうか。
 現代の日本にイライラを抱えた人が多いのは、感情を無理にコントロールしようとして、かえって感情そのものがもつ自然なプロセスを阻害してしまっていることに原因があるのではないだろうか。

 ある母親が、「自分の怒りが抑えられない」ということで相談に訪れた。育児雑誌の特集で「叱らない子育てのコツ」を読むなど努力してみるのだが、うまくいかないのだという。
 突発的な小さな怒りは、なんらかの工夫でまぎらわすこともできるだろう。しかし、怒りに対して罪悪感が強く、冷静でなくてはならないという気持ちが強いタイプの人は、慢性的なイライラを溜め込んでいることが多い。そのような場合は、表面的なまぎらわしだけではうまくいかないのだ。
 慢性的な怒りには、しかるべき“根っこ”が存在していることが多い。その“根っこ”が明らかになってくると、自然に「怒りがそれほど湧いてこない」という状態になるのだ。この母親の場合も、何度かカウンセリングに通ってもらい、“根っこ”に目を向けていくうちに、自分自身の怒りに振りまわされることがなくなってきた。
 怒りの感情を“悪”と見なして、押さえ込もうとすることは、「理性の暴走」とも言える。怒りには、気づくべき“大切な意味”が隠されていることが多いのだ。


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