(4)自由であることの大変さ

 私が小学校教師をやっていた頃、研修会などで強調されていたのは、「詰め込み教育ではなく、子どもの自由な発想を生かした授業を」ということだった。たとえば、分母が違う分数同士のたし算を教える時、いきなり通分のテクニックを教えこむのではなく、「どうすれば、異分母分数同士のたし算ができるだろうか」と投げかけ、子どもたちから自由なアイデアを出させるのである。そして、さまざまな選択肢を比較検討した後で、通分の知識に結びつけていく。このようなスタイルの授業が理想とされた。
 しかし、自由な発想を重視した授業で活躍するのは、もっぱら一握りの成績上位の子どもたちだった。もちろん私の指導力不足のせいもあったのだろうが、多くの子どもたちは、討論に参加するだけの考えが浮かばず、ただ感心しながら聞いているばかりだった。そして、通分のやり方のパターンが説明され、実際に練習問題を解く場面になって、やっと生き生きと活動し始めた。しかし、討論に時間をさいたぶん、練習の時間は短くなり、十分な計算技能が身につかないまま終わってしまう子どもも、少なからずいた。

 与えられた自由を享受するためには、それ相応の発想力や創造力が必要だ。そのような才能に恵まれない凡人にとっては、むしろ、「こうしなさい」と指示された方が自信をもって行動できる場合もある。このことは、子育てについても言えるのではないだろうか。
 もちろん、今の若い親たちが創造力に欠けているとは思わない。しかし、「人間を育てていく」という難事業の前には、親とはいえども、よちよち歩きの赤ん坊である。しかも、日本のように、都市化や核家族化が急速に進み、地域の伝統や宗教的なバックグラウンドから一気に切り離されてしまった社会では、よけいに戸惑いは大きいのではないだろうか。
 「母親はこうあるべきだ」「育児はこうするべきだ」ということが、唯一無二に決まっている方が、ある意味、とても楽なのだ。

 もっとも、伝統的な育児法や母親像の代わりに、現代においては、たくさんの育児情報がある。まったくのゼロから創造していくのなら大変だが、豊富な情報が用意されているのだから、ただその中から選べばよいだけではないか。こういう疑問をもつ方もいるだろう。しかし、「自分で選ぶことができる」という自由も、ある意味、とても大変なことなのである。
 胎教の是非から始まって、様々な出産法、「母乳が理想か、こだわる必要はないのか」、「布オムツか紙オムツか」「離乳食は手作りにすべきか」「早期教育は必要か否か」「厳しくすべきか、優しくがいいか」等々、たくさんの選択肢から何を選ぶかということは、わが子のことを考えると、重大な問題である。
 ある母親は言う。「子どもができる前は、そんなにくよくよ悩む方ではありませんでした。自分だけのことだったら、気軽に選べるのですが、子どものこととなると、そうはいきません。将来に影響するのではと思うと、考えれば考えるほど、どれが一番良いのかと悩んでしまうのです」。親としての責任が肩にのしかかっていると、「選択に失敗しやしないか」と不安はつのるのだ。

 紙オムツもミルクも便利な離乳食も、どこを探しても売っていなかった時代。多様な出産法や早期教育など、誰も知らなかった時代。自分の母親も、祖母も、曾祖母も、昔からこうしてきた。隣の奥さんも、向かいの奥さんも、近所の人たちはみんなこうしている。だから私も、同じようにやるだけ。そのような時代は、なんと気楽だったことだろう。
 禅宗の教えに、「飛び込め」という言葉がある。事を前に躊躇しているから不安が生じるのであって、えいっと実行に踏み込めば、迷いは消えるのだ。しかし、池が一つしかないのであれば、飛び込みやすい。そもそも昔の母親は、自分で飛び込んだ覚えはないのに、気がついたら池の中にいたのである。目の前にたくさんの池があり、それぞれの池の中で、「ここが、理想の育児法だよ!」と手を振っている人たちがいる状況では、躊躇してしまうのは当然だし、飛び込んだ後で、やっぱりあっちの方が良かったかもしれないと後悔することも多いのだ。
 「より良い子育てのスタイル」を模索しようとする親にとって、伝統社会からの価値の押しつけという“外敵”が姿を消してきたという意味では、やりやすくなった現代社会。しかし今度は、「自由」というものにまつわる責任の重さや不安という心理的な“内敵”の出現が、前向きであろうとする親たちを苦しめる。子育てに悩む親たちの現状を、一般の人たちが理解しづらいのは、それがおもに「内なる戦い」だからである。


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