(4)“自分自身”が見えない青少年たち

 「子どもにストレスを与えないようにしよう」と考え、腫れものにさわるような子育てをしていたら、たぶん親の方が先に、ストレスで参ってしまうに違いない。それよりも、ストレスが溜まったら上手に発散していけるような子どもに育てていく方が得策だ。そのためには、甘え上手・ダダこね上手・泣き上手になるよう、ほんの少しだけ配慮していけばよいのだ。
 また、ほどほどのストレスがあるからこそ、それを乗り越えようとして成長していく面がある。不安や葛藤と向きあうなかで、自分らしい“より良い生き方”が発見できることがあるのだ。

 マイナス感情をひたすら心の奥に押し込んで鍵をかけることを繰り返していると、自分が抱えている不安や葛藤の実体がわからなくなる。何が自分を不安にさせているのか、どうすればそれを乗り越えられるのかといった模索の余地はなくなり、そこにあるのは「快か不快かの感覚だけ」ということになってしまう。
 「いったい何が不満なのか、はっきり言ってごらん」という大人の質問に対し、「べ~つに~」としか答えない中学生は、不真面目なわけではない。自分でも何が不満なのか、はっきりわからないのだ。いや、そもそもそれが“不満”なのかどうかさえも定かではないのだろう。さらに問い続けると、「むかつく~」と言うかもしれないが、これさえも、正直な告白なのではないだろうか。その子が感じ取れるのは、マイナス感情の内容ではなく、胸のあたりのモヤモヤした感覚、漠然とした不快感だけなのだから。
 最近の中高校生の交友関係を、「ホンネをぶつけ合わない、一見スマートな人間関係」と前述したが、むしろ本人にさえ、自分のホンネが理解されていないのかもしれない。だとすれば、他人の気持ちなどわかるはずはないわけだ。

 “思春期の葛藤”の中に身を置くということはとても大変なことで、時として精神的な破綻もありうる。その危険な局面を乗り越えるためには、2つの道があるだろう。
 第一の道は、葛藤と向きあうということだ。そのためには、「汝の敵を知る」必要がある。自分の中にある曖昧模糊とした感情を明るみに引っ張り出し、はっきりとした形を与えるために、人は言葉を探し求める。乗り越えいくヒントを得ようとして、人の話を聞き、本の世界を探索するのだ。
 第二の道は、葛藤に身を置くというような面倒くさいことは避け、感情抑圧のノウハウを駆使して、それを心の奥深くに封印してしまうことだ。最近の若者は言葉を知らないとか、本を読まないとか言われているが、葛藤から逃げ出す道を選ぶとしたら、言葉も本も必要ないのである。「面倒くさい」が口癖の若者が増えているのも、このあたりのことと関係しているのかもしれない。

 手軽な道をえらんだ代償は、その人自身に降りかかってくる。人は葛藤と向き合う中で、“自分”と出会うのだから。「自分は、本当は何がしたいのか」「どう生きたいのか」という気づきは、おぼろげなものではありながらも、葛藤に向きあった者へのご褒美だ。人はその“漠然とした未来への予感”を胸に、社会に向かって船出していくのだ。
 ところが、自分自身と向きあうことなしに思春期を過ごすとすれば、自分というものがはっきりつかめないままになる。それではいつまでたっても船出はできないし、たとえできたとしても、荒波に翻弄されるだけの旅になってしまうだろう。
 私の学生時代には、「積極的に就職をしたがらない学生が増えている」として、“モラトリアム人間”という言葉が流行した。しかし当時の学生には、「自分は何者なのか」「いったい、何がしたいのか、何をすべきなのか」という葛藤のなかで、船出できないでいる学生が多かったのではないだろうか。
 それに比べて、最近のニート、フリーター、引きこもりをめぐる状況を見ていると、「自分が何者であるのか」という答えを、外の世界から得ようとして行き詰まっているような感じを受ける。しかし最終的な答えは、本人自らの“内なる戦い”の中でこそ見つかるものなのだ。こういった若者に対する援助のあり方も、“内なる戦い”を支えるという視点を欠かしてはならないのでないだろうか。

 もうひとつ、青少年が加害者となった凄惨な事件では、「警察官に同行を求められると、加害者の少年は素直に応じた」とか、「取り調べにも淡々と答えていた」などと報道されることが多い。しかしそのような時は、反抗的だったり取り乱したりということが、昔は一般的だったのではなかろうか。手際よく準備を整え、冷静に犯行に着手し、その後は何食わぬ顔でふだん通りの生活を続けたというケースも増えているようだ。そこには良心の呵責による逡巡や葛藤はなかったのだろうか?
 そのような点について、「冷酷無比な性格」と断罪され、「特殊な人間による、特別な事件」で済まされることも多い。しかし私には、それらの理解しがたい態度が、現代の若者がもつ感情抑圧傾向の極端な表れであるように思えてしかたがない。彼らは、葛藤や不安をしまい込むことに長けていただけなのではないだろうか。淡々と見えるその心の奥には、本人でさえ気づいてない不安・怒り・戸惑いがあり、そしてさらにその奥には、「友だちに近づけない寂しさ」のようなものがあったのではないだろうか。それは、ただ、「『友だちになってよ』と伝えたい」ということだけだったのかもしれない。
 自分の本当の気持ちに本人が気づいていたなら、もっと別の形でそれを表現する余地があったのではあるまいか。


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