(3)ホンネって、なんだろう?

 日々、懸命に育児に取り組んでいるのに、子どもがちっとも甘えてきてくれない。母親は、「私は嫌われているようだ」とすっかり自信を失い、相談に訪れた。話を聞いている間、その2歳児は背を向けたまま一人で黙々と遊んでいた。初めて来た相談室で、母親が知らない人と話をしている。しかも内容は、自分のことに関する悩みだ。平気な顔をしているが、心の中は不安と緊張でいっぱいに違いない。
 “心のフタ”を緩め、ホンネの気持ちを表現してもらおうと思い、子どもに働きかけてみることにした。「遊ぼうよ」と声をかけると、一瞬表情がこわばったが、誘いを無視して遊び続けようとする。そこで、軽く腕を引いてさらに誘うと、突然ギャ~ッと叫び声を上げ、部屋の外へ出て行こうとした。

 初対面の大人にいきなり腕をつかまれたのだから、怖くなって当然だ。それにしても異様なほどの叫び声をあげるのは、その前から溜め込んでいた不安がきっかけを与えられて爆発したからだ。母親によれば、ちょっとした理由で叫び声をあげることはふだんからあるという。部屋の外へ飛び出そうとするのも、感情抑圧傾向のある子どもによく見られる行動だ。怖い思いをした時は、母親のところへ飛んでいき、助けを求めて泣くのがふつうだろう。しかし、平気なふりをして我慢を続けたい子どもは、マイナス感情が吹き出やすい母親のもとを避けようとするのだ。
 そこで、「一人で無理に我慢しなくていいよ。こういう時には、ママのところで泣いていいんだよ」と声をかけ、母親に抱き止めてもらうことにした。母親に抱かれると、子どもは落ち着くどころか、ますます狂ったように泣き叫び、その手から逃れようとする。そして、「ママのバカ!」「ママなんか、きらいだ!」と怒鳴りはじめた。これもよくある行動パターンである。平気な表情を取り戻すためには、心のフタが緩んでしまう母親の抱っこを受け入れるわけにはいかないのだ。
 それでも母親は放さず抱き続け、「ママは大好きだよ!」と声をかけ続けていると、やがて子どもの体がふっと柔らかくなり、甘えるような泣き声に変わった。そして最後は、母親の腕に身をまかせてゆったりと落ち着いた。「こんなにぴったりと抱っこさせてくれたのは初めてです」と声をつまらせる母親。こんなやりとりを数回重ねるうちに、子どもは徐々に甘え上手になっていった。
 母親に対する悪口は、ホンネの気持ちではなく、我慢を通したいがゆえの“拒否の怒り”なのだ。重石のように心を塞いでいた怒りを出しつくしたことで、やっと、隠れていた「本当は、ママに甘えたい」というホンネの気持ちが顔を出したのだ。

 後日、似たような体験を母親自身がしたそうだ。夫が帰宅すると、その日の子育ての大変さをグチるのが日課だ。夫はしんぼう強くつきあってくれるが、グチればグチるほど腹が立ってきて、最後はいつも夫をなじってしまう。なんとも後味が悪く、ちっともすっきりしないでいたそうだ。
 ところがある晩、いつものようにグチを言い続けているうちに、なんだか泣けてきてしまい、「寂しいよ!」という言葉が口をついて出てきた。そして自分が発した思わぬ言葉に驚き、「そうだ、私は寂しかったのだ」とやっと自分の本心に気づいたそうだ。そのあと、涙が止まらなくなったが、泣けば泣くほど胸が温かくなり、肩の力が抜けていくという不思議な感覚を味わったと話してくれた。

 頑張らなくては!と心のドアに鍵をかけ、怒りの重石を載せたままでいると、ホンネの気持ちが自分でもわからなくなってきてしまう。それは、子どもも大人も同じだ。感情表現には、「自分の気持ちを相手に伝える」という“感情伝達”の役割とともに、「感情を表現していこうとする過程で、自分が抱えている深い気持ちを、自分で認識できるようになる」という“自己認識”の働きがあるのだ。
 “感情伝達”の技術を身につけていくことは、もちろん必要である。しかし、“自己認識”の働きの方が、子どもの心の成長という面では、むしろ重要な意味をもつのではないだろうか。
 程度の差はあれ、現代の子どもたち全般に感情抑圧傾向が広がってきているとすると、「自分のホンネがはっきりわからない」という子どもが増えてきているはずだ。

 


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