(2)責任者は誰だ?

 青少年の凶悪事件が起き、今どきの子どもの“育ち”に世間の関心が集まるたび、必ず教育改革が話題となる。かつては、「学校での詰め込み教育が原因だ」と批判を浴び、“ゆとり教育”が打ち出された。それが昨今では、「学力の低下を招いた」と問題視されるようになってきた。そのたびに、現場の教師たちは右往左往する。

 1980年代に、中学校での校内暴力がピークを迎えた頃、私は小学校の教師をしていた。ある時、中学校の教師に、「小学校での指導に、問題があるのではないか」とぼやかれたことがあった。「今の中学生は、入学した時からすでに、昔とは違うやりにくさがある」というのが、その教師の言い分だった。
 1990年代に入り、今度は、小学校での学級崩壊やいじめの問題が深刻化してきた。そんな頃、一部の小学校教師の間では、「幼稚園での指導に原因があるのではないか」という声があがっていた。そもそも入学してきた時から、子どもの様子がおかしい。入学式の途中であきてしまい、椅子の上に乗って後ろを眺めだす子どもが一人や二人ではない。教室でも椅子に座っていられず、勝手に歩き回る子どもが大勢いる。昔の子どもは、こんなではなかった。
 現場の教師たちには、「学校教育が元凶だ」という声があがるたび、空しさを覚える。もちろん、学校の教育体制にも改善の余地はあるだろう。しかし、そもそもスタートの時点で子どもがおかしいのだから、原因は入学以前にあるはずだ。かくて、中学校の教師は小学校を疑い、小学校の教師は幼稚園や保育園のせいではないかと疑う。

 それでは子どもの変質の原因は、幼稚園や保育園の指導のあり方にあるのだろうか。幼稚園では、1990年代に、“自由保育”の考え方が急速に広まった。画一的なカリキュラムに縛りつけるのではなく、子どもの自由な発想や自主性を重んじようという指導方法である。「自由保育によって、しつけがおろそかになったから、小学校の教師が苦労するのだ」という声に対して、幼稚園のベテラン教師たちは言う。「入園の時から、昔の子どもとは違うので、私たちも苦労しているのです」。
 そもそも入園時から、従来のカリキュラムには乗ってこられない子どもが増えてきた。その状況に対応するための“苦肉の策”という側面が、自由保育全盛の陰にあるのだという。「今の母親は、昔とずいぶん変わってきましたからねえ。親の育て方が、一番の問題なのではないでしょうか」。
 かくして責任者捜しの矢は、中学校、小学校、幼稚園を経て、母親へと突き刺さる。子どもの変質の原因は、親の育て方にあるのだろうか?

 現場の教師たちが口を揃えて言うのは、親のタイプの二極化だ。昔も、それなりに無神経な親はいたし、神経質な親もいた。しかし大多数は、そのどちらの極端でもない“普通の親”だった。
 ところが今は、子どもに対する配慮に欠け、まるで自分が“子ども”のように傍若無人に振る舞う“とんでもない親”が確実に増えている。その一方で、子どもの一挙手一投足を気にしすぎ、親としての重圧にあえぐ“まじめすぎる親”も増えているのだという。
 “とんでもない親”の子どもに、様々な問題が生じてくるであろうことは容易に想像できる。それでは“まじめすぎる親”に対しては、「気にしすぎないように」とアドバイスしていれば、事足りるのだろうか。

 相談室を訪れるのは、子育てに行きづまっている現状をなんとか打開したいと思って来るのだから、大半はまじめな親だ。「気にしすぎ」の傾向をもつ親もいる。
 しかし、よく話を聞いてみると、大半のケースでは、「気にしすぎてしまうのも、無理もない経過」がある。つまり、親の育て方うんぬんの前に、もともと「育てにくい子ども」だったために、悪循環に陥ってしまったのである。


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