(9)doingとbeing

 1000グラム未満の体重で生まれる“超低出生体重児”と呼ばれる赤ちゃんがいる。昔だったら助からなかったであろうこうした赤ちゃんも、医療技術の発達とともに、命をとりとめることが可能になった。赤ちゃんは生後すぐに、NICU(新生児集中治療室)に入れられ、モニター用機器に囲まれた24時間の監視体制の中で数ヶ月を過ごす。呼吸が難しい赤ちゃんには呼吸器を、病気の赤ちゃんには点滴を、おっぱいが飲めない赤ちゃんにはチューブ授乳などの措置が施される。そこには、先端医療の粋が集められているのだ。
 ただ、生命の維持が最優先とはいえ、狭い保育器に長期間入れられ、少なからぬ聴覚・視覚刺激を受け続けるストレスは相当なものだ。一日のうちに何度も繰り返される身体評価や採血などの医学的な措置も、ストレスの原因となる。
 それ以上に懸念されるのは、母親の側のストレスだ。赤ちゃんがNICUに入ってる間は、すべてを医師に託すほかはなく、「親として、わが子に何もしてやれない」という無力感にさいなまれ続けることになる。しかもそこに、早産になってしまったことに対する自責の念が加わり、さらに不安が大きくなる。このように、親と子の双方に生じた心理的なダメージは、育児放棄や虐待など、その後の親子関係に深刻な影響を及ぼす場合があるのだ。
 このような状態の母親に、「あなたが気弱になっていてはダメでしょ。さあ、笑顔でがんばって!」と励ましたとしたらどうだろうか。そういった言葉がきっかけとなり、立ち直る母親もいるだろう。しかし、「気弱になっている自分は、ダメな母親だ」という新たな不安が加わり、かえってストレスが増大してしまうケースの方がむしろ多いのだ。

 「赤ちゃんの生命を救う」という面においては、“問題点探しと改善”の原理をフル回転させていく必要がある。しかしメンタルケアの面では、「母親が不安を抱えている」ということを是正すべきことととらえ、不安感情を除去しようとストレートに働きかけると、逆効果になってしまうことが多いのだ。
 一般に医療従事者は、冷静な判断ができるよう、自らの感情に左右されないようなトレーニングを積んでいる。そういった人たちから見ると、母親の動揺は、医療の妨げと感じてしまう面もあるだろう。しかし、「母親のあなたがおろおろしていて、どうするの!」と叱ったところで、事態は悪化するばかりだ。
 そういったジレンマの中で、母子双方のストレスを劇的に低減させる画期的な方法が注目されるようになった。それが“カンガルーケア”である。母親がNICUに入り、赤ちゃんを保育器から出して、母親の素肌の胸の上に、裸の皮膚と皮膚とが触れるように抱いてやるのだ。
 母親が静かにただ抱いているだけで、母子双方に劇的な変化が起きる。保育器の中では硬いままだった赤ちゃんの表情が、母親の胸の中では、みるみる柔らかくなり、うっとりとした表情に変わっていく。それとともに、母親の方も自然に笑顔になっていくのだ。たったこれだけのことでストレスが激減し、早期に親子の心の絆が形作られるのである。

 臨床心理士の岡田由美子さんは、加古川市民病院小児科で、カンガルーケアの取り組みを積極的にサポートしてきた。岡田さんは、「doingとbeing」という言葉を使って、母子の間で起きているメカニズムを説明してくれた。
 「赤ちゃんの生命を救うためには、専門スタッフの積極的な働きかけ“doing”が不可欠です。しかし精神的なダメージに関しては、親と子の存在そのもの“being”がもつ回復力に信頼を置くべきだと思います。肌の感触を通して、母親が子どもの存在を実感し、子どもが母親の存在を実感すると、親子のもつ相互作用が働きはじめ、回復への自然なプロセスが進行していくのです」。
 心の問題という領域では、理性のコントロールによる“問題点探しと改善”という方法ではなく、むしろ理性的な努力を休止した時に働きはじめる“回復への自然なプロセス”にゆだねることが有効なのだ。

 カンガルーケアは、南米コロンビアの病院で、保育器が足りないことから苦肉の策として考え出されたものである。それが、NICUの代用として効果をあげたため、発展途上国の間で広まり、やがて欧米の医療関係者からも注目されるようになったのだ。“ゆるんだ生き方”が得意な国には、“ゆるむ”からこそ進んでいく、いわば「他力本願的な改善方法」の知恵がまだ残っていたのだろう。
 カンガルーケアのもつメカニズムを丁寧に考察していくと、現代の日本社会における「子育ての行き詰まり」の元凶がはっきりと見えてくる。それは、大人社会が余裕を失い疲れ切っている根本的な要因とも重なるものだ。ある集団の矛盾は、その集団の中のもっとも弱い部分に真っ先に表れるという。まさに今、親子が直面している問題は、大人社会の未来を先取りしていると言えよう。


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