◆「近づきあうこと」と「離れること」
私が以前属していたカウンセリングの団体は、お互いが、カウンセラー役(聞き役)とクライエント役(話す人)を交代で受け持つというシステムを提唱していました。2人で話し合える時間が30分あるとすると、15分ずつ、立場を交換するわけです。
その人の傾向によって、「カウンセラー役は得意だけど、クライエント役は苦手」というタイプの人と、逆に「クライエント役は得意だけど、カウンセラー役は苦手」というタイプの人がいるようです。
前者のタイプの人は、「人の役に立ちたい」という長所と、「人の役に立っていることだけが生きがいになってしまい、そのことだけに没頭しすぎてしまう」という弱点をもっています。後者のタイプの人は、「心を素直に打ち明けられる」という長所と、「自分一人では、何もできないという無力感に支配されがち」という弱点があります。長所が長所として生かされるためには、自分の弱点を自覚している方がよいようです。
私自身がどちらのタイプかといえば、間違いなく前者のタイプでした。小学校教師時代もそうだったし、教師をやめて子育て相談を始めた頃の私も、「苦しんでいる親子を助けてあげよう!」と肩に力が入ってました。相談にやってきた親子のことを、昼も夜も考え続けているような状態。これって一見、まじめで、一生懸命で、いい人なんですが、いったん調子が悪くなると、とたんに苦しい状態に追い込まれてしまうのです。「ああ、自分が無力だから、あの親子はちっともラクにならないんだ」という無力感に陥ったこともあります。全く逆に、「これだけがんばって援助しているのに、どうして分かってくれないんだ!」というイライラ状態になったこともあります。
しかし、「私が助けてあげないと、あの親子は一体どうなるんだ!」という思いは、裏を返せば、「あの親子を助けてあげられるのは、私だけだ!」ということ。これは、「思い上がり」「傲慢さ」だと、だんだん気づいてきたのです。
援助のセッションは、いつもうまくいくとは限りません。中には、苦しい状況からなかなか抜け出せないまま、いつの間にか、通ってこなくなる親子もあります。こんな時、以前の私は、そうとう落ち込み、自分を責めまくりました。でも今は、「やるだけのことは、精一杯やったのだから、しかたがない」と思うことができるようになりました。そうなると、「あの親子には、きっとどこかで別の出会いがあり、シワセになるチャンスがめぐってくるだろう」と祈る余裕も出てくるのです。
また、せっかく良い親子関係になりかかってきたとき、急にセッションに通ってこなくなった方もいました。しばらくして、お母さんから、「幼稚園で良い先生に巡り会って、親子共々落ち着きました」との連絡。以前の私だったら、「それって、私の助けがあったからじゃないか!」と腹が立ったものです。でも今は、「ステキな出会いがあって、よかったなあ。誰のおかげであったとしても、親子がシアワセになれたんだから、めでたし、めでたし!」と思えるのです。
援助者が、必要以上に親子を丸抱えにしてしまうとき、それはかえって、親子の立ち直りの足を引っ張る結果になりかねません。「人助けだけが生きがい(というか、こだわり)」になってしまうと、相手が自立することは、自分の生きがいがなくなってしまうことを意味します。こうなると、本人の意図とは反して、「私のもとから去らないでね」「いつまでも自立しないでね」という無意識のメッセージを、相手に送ってしまうことがあるのです。
こういう関係って、親と子、あるいは大人同士にもありうることですね。
特に、「カウンセラー役は得意だけど、クライエント役は苦手」というタイプの人と、「クライエント役は得意だけど、カウンセラー役は苦手」というタイプの人が出会うと、本人同士は、ある意味、とても居心地良く感じるのです。しかし、これが、お互いの短所を助長しあう関係として深まっていった場合、最終的には、お互いがお互いを苦しめあう結果になってしまいます。
以前テレビで、アルコール依存症の夫をもつ女性のドキュメンタリーをやっていました。
泥酔をした挙げ句に、転倒して大けがを負うことなどが続く夫。「私がしっかり監視していないと、この人は、またお酒を飲んで・・・。今度は死んでしまうかもしれない!」 そう思った奥さんは、徹底してご主人の生活管理を始めました。でも、少し目を離すと、隠れてでも飲もうとするご主人。いっときも気を抜けない状況の中で、だんだん奥さんのストレスは溜まっていき、動悸を感じたり、イライラすることが増えていきました。何とか奥さんの目を出し抜いてお酒に手を伸ばそうとするご主人との、イタチごっこ・・・。
ところが、カウンセラーのアドバイスで、「夫への監視」をやめ、自分自身のための時間をもつ(映像では、奥さんが好きな手芸をやっている様子が映し出されていました)ようにすると、だんだん、ご主人は、お酒に手を伸ばさなくなってきたのです。それから3年たった現在、ご主人は、自分から進んでアルコール依存症の自助グループにも通うようになり、すっかりアルコールから足を洗ったそうです。
ご主人がインタビューに答えていました。「急に女房が口やかましくなくなって、最初は、『ついに見放されたか』と、寂しく感じました。でもそのうち、『こうなったら、自分で何とかするしかない』という気持ちにが湧いてきて・・・」
以前の奥さんの状態を、「共依存」というのだそうです。アルコール依存症の夫をもつ奥さんなどが陥りやすい状態で、最初は、夫を助けたいという善意から出発していますが、いつの間にか、「夫を助ける」ということが生きがいになってくる。そうすると、無意識の内に、「私の生きがいをなくしたくない」という気持ちが働き、心の奥で、「いつまでも私の助けを必要とするあなたでいてね」と、本人の回復(ひとりだち)の足を引っ張る願いをもってしまうのだそうです。
共依存からの脱出は、口でいうほど簡単ではないようです。「夫を助けなくてはいけない」という気持ち自体は、素晴らしいことですから、その気持ちが夫のひとりだちを遅らせているとは、どうしても思えない。また、「私が手を引いたら、夫はどうなってしまうの?!」という気持ちが起こって当然ですから、「大丈夫! 私がいなくても、あの人は自分自身の力で、必ず立ち上がってくれるはず!」という強い確信が必要となるのです。
もちろん、共依存からの脱出は、「相手を見放す」のとは違います。相手の「内なる力」に絶大な信頼を置きながら、祈りながら、見守る・・・ということなのです。
「この子を何とかしてあげなくっちゃ」と、親の責任感から、あまりにも多くを背負おうとしすぎると、同じような苦しさに陥ってしまいます。「お母さんがこんなに頑張っているのに、どうしてあなたは!」とわが子を責めたくなるか、「私がちゃんとしないから・・・」と自分を責めるかになってしまいます。
でも、わが子の力を信頼し見守り続ける時、自分自身の秘めたる力を信じて自分と付き合い続ける時、思いがけない形で、新しい地平が開けるはずです。
もっとも私の場合、共依存から抜け出るには、けっこう時間がかかりました。いつも「人のために頑張りたい」というタイプの人間が、「頑張ることをやめる」ということは、とても大変なことです。「頑張ることは、悪いことなのか?!」と思った時期もありました。「私が助けてあげよう!」という意識をもたないで人により添い続けるのは、とても不安で、「こんなことで、事態はよい方向へ向かうのだろうか?」と悩んだ時期もあったのです。
ひとつのきっかけは、仲間に支えられながら、自分自身の中に「内なる力」を見いだせるようになったことでしょうか。自分自身の「内なる力」に信頼がおけるようになると、他の人の「内なる力」も、よく見えるようになってくるようです。
お互いの「内なる力」を確信しあいながら「人と人がつながり合う」とき、そこにはほどよい距離が生まれます。それは、「抱きしめあう関係」とは矛盾しないのです。「人は出会うために別れ、別れるために出会う。離れては近づき、近づいては離れる。これは、生と死と同じように自然の摂理、大宇宙の呼吸だ」という言葉、ある本で見つけました。
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