◆「いま、ここ」での眠り

極端なガンバリズムで、自分で自分を追い込んでいた教師時代、私にとって眠ることは、「しかたがなくやる行為」でした。やらなければならないことは山積みなのに、ちっとも片付かない。寝ているヒマなんかない!のです。
寝るとしても、寝ること自体を味わうというより、「明日のために寝る」という感じ。「今日の反省」や「明日の予定」で、頭をいっぱいにしながら、眠りについていたのです。からだは眠っていたけれども、心は「いま、ここ」にはなく、過去や未来をさまよっていたのですね。
逆に、朝、目覚めたときは、「今日一日、片付けなければならないたくさんのこと」で頭がいっぱいになると同時に、「何時になったら休めるだろうか・・・」と、心は未来へと逃げ出していたのです。

目覚めてから頑張れるようにするために、眠る。目覚めたときは、フトンの中に思いをはせながら、活動する。・・・心はいつも、「いま、ここ」にいませんでした。眠るときは、眠ることを味わう(楽しむ)。目覚めて活動するときは、そのことを味わう。そんなふうではなかったことが、エネルギーの消耗を助長していたのです。
眠ることがチャイルド(小さな子どもの私)だとしたら、起きて活動することは、「大人の私」を象徴することと言えるのでしょうか。チャイルドの言い分を「大人の私」が無視し、「大人の私」の足を、チャイルドが引っ張る。そんな共倒れ現象が、私の心の中で起きていたのだと思うのです。

メルマガ「癒しの子育て・親育ち便り」(第38号)で紹介した「カンガルーケア」。加古川市民病院で、この先駆的な取り組みを推進している岡田由美子さんが、抱っこ法の研修会で、実際の様子をスライドで見せてくれました。
ママは何もしないで、ただ静かに赤ちゃんを抱いているだけです。しかし、保育器の中では硬い表情で寝ていた赤ちゃん(未熟児)が、ママに抱っこしてもらった瞬間、みるみるウットリとした表情に変化していくのです。それと同時に、保育器に隔てられて、わが子を抱かせてもらえなかったママ、初めてわが子を抱いたママの表情が、シアワセに包まれていく感じがしました。

スライドを見ながら、なぜか感動でウルウルきてしまい、涙が止まらなくなって困りました。私たちがこの世に生を受けたことの「原点」を見た気がしたのです。
スライドに登場する赤ちゃんは、極小未熟児で、生死の境をさまよってきました。やっと、命が助かる見通しが立ったところで、お母さんとの直接対面が可能となるのです。ママとしては、ただただ、そこに生きていてくれることだけで嬉しいのです。このことは、私たち全員に当てはまるのではないでしょうか。本来私たちは、この世に生を受けたということだけで、大宇宙(神様? お釈迦様?)からの微笑みを受けたと思うのです。

毎夜、私たちは赤ちゃんに戻り、大宇宙の胸の中に帰るのかもしれません。夜ごと、母なる大宇宙は、「生きているだけで、うれしいよ」と、私たちに、ささやきかけてくれているのかもしれません。
このことを、私たちが忘れてしまわないために、私たちのからだは、眠らなければならないようにできているのかもしれませんね。


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